すいすい小噺#111



男塚(おとこづか)って?



メインですいすいやっている場所の前には公園があります
その名も「男塚公園(おとこづかこうえん)」ですが 男塚って何? って話を・・・
男塚公園の細い道路向かいには小山があります その名も「男山(おとこやま)」
(実は近くに「女山(おんなやま)」もあるんです)






男山はかわいい小山で10秒で登れますw その上に浅間社(富士信仰/浅間信仰)が祀られています

ここでご紹介したい人がおります


奥貫友山(おくぬきゆうざん)さんです!(誰やねん)


1708年〜1787年 今から300年くらい前にこの土地(南古谷)に生きていた人です
すいすいのやっている牛子エリアのすぐ近く 南古谷村の久下戸(くげど)で大きな農家をされていました 名主※(=村長) をしていましたが  ※ 名主=庄屋(名主・肝煎)、組頭(年寄)、百姓代という村政を担う3種の村役人
1764年 今から257年前に 江戸時代最大級の関東一円に及ぶ台風がこの地を襲い 南古谷近くを流れる大きな荒川を始め 利根川、多摩川などが決壊(けっかい)して大洪水が起きます
台風は去ったものの 水かさがどんどん増してくる地域
その時 友山さん35歳  名主に在任して15年が経っていました
友山さんの家も1階の床上30cm程の浸水となり 低い場所の家では3m程の水深になってしまいました みんな屋根の上にのぼって何とか生き延び 台風の雨で亡くなった方は村内にいませんでした

毎日の食べ物や 耕していた田畑全てが水没してしまいました

友山さんは父親と相談し

幕府(国)や川越藩(市)の救済はあるものの 遅かったり十分に行き届いてなかったりを見かねて 自分の持っていた食べ物を身分の分け隔てなく渡し お粥を作って炊き出しをし続けます
水難を逃れて友山さんの元に続々と人が集まってきます
50名、100名、500名、1,000名・・・
当時はNGだった他の村々からも 助けを求めて友山さんの元に集まってきます

炊き出しは翌年の4月まで半年以上に及びます 資金不足になった友山さんは 自分の田畑を売ってお金にし さらにみんなの生活を支えていきます
大水が引いた後 食べ物は何とかみんなで共有できたのですが 田畑は全て泥水で浸かってしまいました


みんなの仕事が無くなってしまった状況

そこで友山さんは次の水害に備えるべく 水塚(みずつか)と言われる避難場所つくりを 避難してきたみんなに呼び掛けて始めます
働いてくれた人には1日麦3升(約4.5kg)を支給して 普請(ふしん)工事と言われる地域住民による奉仕活動を行います
最終的には  48村 10万6000人の人たちを救済した 地域のリーダーです
そして

その時つくられた「水塚」の一つが 男塚公園脇にある「男塚」なんです (ジャジャジャーン!)

いつか
「川越博物館」に行く機会があったら もっと詳しくわかるかもhttps://www.city.kawagoe.saitama.jp/smph/welcome/kankospot/hommarugotenzone/hakubutsukan/index.html

奥貫友山さんのことを もっと詳しく知りたい方は 下記のページとか見てみてね!
<大水記> https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kasen/rekishibunka/kasengijutsu08.html
<近代における奥貫友山事績の系譜> https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwj15onBtofwAhWZdd4KHT2pAXMQFjAAegQIAxAD&url=https%3A%2F%2Fmonjo.spec.ed.jp%2Fwysiwyg%2Ffile%2Fdownload%2F1%2F39&usg=AOvVaw0gSdcZeZW3aaqZ913iXhn7
<浅間塚(男塚)> http://kohunsuki.livedoor.blog/archives/801836.html









コメント

人気の投稿